理事長室

頼朝はなぜ、鎌倉から出なかったのか。

  • 2020.8.17
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 源氏が平家、さらに奥州の藤原氏を滅亡させた時点で、軍事的に頼朝に対抗する勢力はいなくなります。お隣の中国であれば、間違いなく、天皇に変わって新王朝を作ったでしょう。しかし、頼朝は征夷大将軍という古びた官位をもらい、全くオリジナルな鎌倉幕府を開きます。極めてシンプルな組織です。地方には守護(警察署)、地頭(税務署)を認めさせ、中央には3つだけ、公文所(朝廷との交渉役)、問注所(裁判調停)、侍所(警察署の統括)を置いただけです。
 鎌倉幕府はボス(将軍)と家来(御家人)のギブアンドテイク(御恩と奉公)で成立しています。自分が開拓した土地を他人名義にしないと守れない。そんな矛盾だらけの仕組みを何とかしてもらいたい。自分の土地の所有権を認めてくれて(本領安堵)、守ってくれればそれで十分満足なのです。公家に代わって国を統治しようという野心などありません。
 頼朝は御家人のニーズ、そして自分がなぜ担ぎ出されたのかという理由を正確に理解していました。今、神輿の上に乗っているのは実力ではなく、武士の棟梁という血筋であり、先祖を辿れば、天皇に行きつくという高貴さゆえです。もし天皇の権威を否定したら、自分の基盤も失うことになります。


 

 さらに自分たち地方武士の限界も見極めていたのでしょう。問注所、公文所の長官には適任がいません。結局京都から下級公家をスカウトします。御家人の能力では国を運営する官僚組織は作れなかったのでしょう。だから、天皇から武士の親分に任命され、武士の土地支配の権限を合法化した時点で、京都との闘争を寸止めにし、朝廷との共存路線を進めます。 ただ、頼朝自身は二回上京して、法王に拝謁していますが、政権拠点はあくまでも鎌倉で、京都には移しません。頼朝は京都の公家たちの狡猾さをよく知っています。父親義朝の悲劇を目の当りにしています。保元の乱では、勝利者になりますが、反対陣営にいた父親や一族を自ら処刑するという苦渋の経験をしました。そして平治の乱では清盛に敗れて逃走中、裏切りにあい落命します。京都政権にとっては源氏の棟梁とは言っても、使え勝手のいい番犬でしかなかったのです。弟義経の悲劇も朝廷に取り込まれた結果です。
 結局、どうしたら生き残ることが出来るかを考えた末に、鎌倉にとどまり、武士の棟梁という立場を固めるということに専念します。ソーシャルディスタンスを保つことで朝廷ウィルスから身を守る。この頼朝の用心深さが、武家政権のモデルとなり、実権のない天皇との不思議な共生関係を構築することになります。
 しかし、生まれ故郷の京都への愛着はあったのかもしれません。頼朝の晩年は娘の入内させるような画策をしています。清盛の猿真似です。頼朝の死は落馬しての事故死ですが、あるいはこのような動きに対して暗殺されたとの説もあります。結局、直系は3代で絶えましたが、関東武士にとって、本領安堵システムが公認されれば、源氏の棟梁というお飾りは必要がなくなったかもしれません。
 一方、朝廷側は元の世に戻す機会を伺っていました。1221年頼朝の次男実朝が暗殺されたのを期に朝廷から幕府追討の命が来きます。承久の乱です。幕府内部も動揺が広がります。「どうしよう朝敵になっちゃった。これはまずい。」幕府最大の危機です。その時、尼将軍の政子が毅然として言い放ちました。「誰のおかげで、今がある。恩を忘れるな」周りの武士も腹が決まりました。「そうだ、前の世の中に戻るくらいなら、やるしかない。」武士たちが番犬から本当に独り立ちした瞬間です。以後650年間、日本は武士の世の中になります。