理事長室

通潤橋3「公助」

  • 2020.11.16
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 通潤橋プロジェクトで最も苦心したのは、やはり建設資金の調達だったと思います。本体工事に319貫余、付帯工事に375貫余、総額約700貫は現在の金額に換算すると約40億円になります。布田保之助が一人で金策できる額ではありません。
 保之助は矢部郷のいくつかの庄屋を束ねる惣庄屋で、農民総代という立場です。熊本藩の組織では郡代の下におかれ、手永という職を与えられます。熊本藩では、宝暦の改革以後。この手永に土木工事を実施できる権能を与え、年貢から一定額を蓄財できるようにしていました。また、多額の場合、藩から資金を貸す制度も作っていました。補助金ではなく、貸金というのは貧乏な熊本藩らしい制度でした。貸りた金はいずれ返さなくてはなりませんが、将来、利益を生む投資であれば、その利益の中から長期に返していけばいいわけです。ともかくもプロジェクト資金を得る仕組みが出来ていたことは、夢の実現に向けて大きかったと思います、保之助はこの「公助」の仕組み使って資金を確保します。当然、藩の役人への説得が必要不可欠です。当時の直属の郡代は上妻半右衛門、さらにその上司が総奉行の真野源之助でした。ちなみに通潤橋という名は総奉行の真野が命名しました。当時の上層部の強い支持を獲得していた証でしょう。
 どういう風に説得したか、これは想像するしかないですが。まず計画書づくりで、図面に落し、費用を積算する作業から始めたと思います。保之助が中心に立案しましたが、手永の下には時習館で学んだ下級役人が補佐していたと思います。藩にとっても、新田が開発できれば、増収になりますので、悪い話ではありません。ただ、今回のプロジェクトは大規模かつ未知への挑戦の部分がありますので、そのリスクをどう見るかでしょう。やはり、保之助の存在は大きかったと思います。土木事業の実績がありましたし、私利私欲とは無縁の人格者で人望がありました。
 布田保之助たちの自助、種田石工衆の共助、そして熊本藩の公助が寄り合った三助方式で、通潤橋建設が成功したことを紹介させていただきました。美しい風景がどのように作られたか、どのような人々の営みがあったのか、調べてみて、改めて誇らしい郷土の歴史だと思いました。
 三助方式が万能の手法とは思いません。短所もあります。三つのセクターの思いを共有する合意形成までの時間がかかりますし、タイムスパンの短い営利事業には向かないでしょう。明治初期や戦後復興に際しては、中央集権的に官僚が立案し、欧米の進んだ技術やシステムを短期間に導入する方が、はるかに効率的だと思います。ただ、現在はそのような先進モデルが無い時代に突入しています。不公平感が出ない様に全体大枠は国が定めるとしても、詳細部分は地方の独自性に委ねた方が効率的な局面が増えています。
 三助方式には、少なくとも2つの大きな利点があります。一つは、現場の近くで物事が決まることです。今のシステムでは国事業は東京で決まってしまい、机上の空論のようなことが起こりがちです。これに比べて、三助方式の場合、地域の実情にあった合理的の高い計画に誘導できると思います。
 二つ目は予算の膨張を抑制する点です。大きなプロジェクトでは必ずと言っていいほど壁にぶつかります。この困難を乗り越える知恵は借り物では出てきません。現在は国に財源が集中しているため、仕方ない面もありますが、ともかく地方自治体は頻繁に陳情に行きます。陳情するのが役場と議会の仕事と思っているのではないか。と疑うような場面に出くわすことがあります。熱心に陳情した結果、採択されたあと、地域は「あなた任せ」の姿勢になりがちです。三助方式では、自らも責任を分担しているので、予算が膨らみそうになると、何とか抑えようと知恵を使います。
 日本では、都市封鎖などの強権的な手法は取りませんでしたが、何とかパンデミックを回避しています。伝統的な共助、自助の思いの強さが無意識に自律的な行動に繋がっているようです。現在の熊本が直面しているコロナや災害への対応では、三助方式のよい面をもっと引き出せると思います。