理事長室

通潤橋2「共助」

  • 2020.11.9
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 肥後石工の源流は清正が連れてきた穴太衆でしょう。彼らは熊本城の武者返しを代表するように芸術的な石組みを作り上げました。その後、平和な時代になって河川改修などの土木事業に転用されました。熊本城下も白川と坪井川の流れを変えて作っています。技術者は県内に散らばって根を張っていきました。
 種山村(現在の八代市東陽村種山)に居住する種山石工の直接のルーツは藤原林七と言われています。1756年の生まれですから、江戸中期になります。もともとは長崎奉行所の役人でした。長崎の眼鏡橋の構造に関心をもち、オランダ人からアーチ式石橋の仕組みを学びます。ただオランダ人から怪しい機密事項を入手したとされ、追われる身となり、武士を捨て、肥後まで逃げてきます。それでもやはり自分でも作りたくなったのでしょう。八代氷川にいた石工の宇七に弟子入りします。眼鏡橋で肝になるのはア-チ部分の石材の上辺と下辺の長さを正確に加工する技術で、円周率を理解して、計算する必要がありますが、ここで伝統の石工技術と林七の理論が合体し、石橋架橋ブームが起きます。地元から多く産出される凝灰岩(阿蘇の火山灰が堆積して岩となった)は彫刻のような細かな細工には不向きですが、比較的柔らかで、石材としては加工しやすく、武者返しのような石垣の石材としては最適です。さらに地元の地形が石橋を必要としていました。深い峡谷に削られた地形は、人々の自由な往来を阻んでいました。橋があれば数十秒で行ける距離を、一旦は谷底まで下りて、川を渡り、逆に谷を上らなくてはなりません。地域住民にとって大きな恩恵があったことが、特に緑川流域に石橋が群棲している主な理由です。
 保之助も惣庄屋として、多くの土木事業を手掛けており、種山石工とはすでに旧知の仲でした。種山石工では代が移って、林七の孫。卯助、宇市、丈八三兄弟の時代になっていました。実際の通潤橋工事は、棟梁を宇市、副棟梁を丈八が務めています。ついでに紹介すると、末弟の丈八は、のちに橋本勘五郎と改名し、明治初期に宮内庁の土木部に招聘され、皇居周りの石橋や、日本橋の万世橋、浅草橋などを建設し、種山石工の名声を全国に広めます。 

 保之助が通潤橋プロジェクトを立ち上げた直接的なきっかけは、建設から遡ること7年前に隣村の砥用村に建設された霊台橋だったと思います。霊台橋は当時の常識外れの89mの長さでした。「こんな大きな石橋の建設が可能なら、通潤橋も夢ではない。」保之助は確信を持ったでしょう。技術的な問題は、むしろ水路橋という特性の方だったようです。日本では水路橋は殆ど無いのですが、実は種山石工には経験がありました。林七の直弟子である岩永三五郎が若い時に、砥用村に雄亀滝橋という水路橋を作っています。三五郎は鹿児島の甲突川の五つの石橋を作ったことで有名な石工で、三兄弟にとっては、叔父さんにあたり、直接指導を受けた師匠のような存在でした。当然、雄亀滝橋の工法も知っていたでしょう。ただ、全長は14mで、今回の通潤橋はその5倍以上の長さです。さらに厄介なのは、石橋部分の高さが両端の土地より低くということでした。この条件で通水を可能にするには、サイフォンの原理を応用した吹上樋を精緻に作ることでした。結局、7.76m高い場所から水を入れて、5.63m高い所に水を出させる。2mの高低差が圧力になって水を引き出させる仕組みです。ただビニールのような便利な素材がない江戸時代です。ポイントはこの長さの水路管を如何に作るかです。初めは木製でチャレンジしましたが、水圧で破壊されました。結局、試行錯誤の結果、ノミで石を刳り抜いて638個の石管を削り、連結させ、継ぎ目部分の漏水対策としては特殊な漆喰を開発することで解決し、石橋の上に三列長さ126mの水路を完成させました。
 通潤橋建設は当時最高水準だった種山石工の技量や経験を持ってしても、難しいチャレンジでした。これを成功させたのは、郷土のため、子孫のためという思いを共有できた共助の絆の強さだったと思います。