理事長室

通潤橋1「自助」

  • 2020.11.2
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 宝暦の改革を進めた重賢の三助精神は、後世にも大きな影響を残しています。その一つとして通潤橋を取り上げたいと思います。通潤橋は1854年に建設されました。人が通る橋ではなく、水路橋で、橋の上を水路菅が通っています。
 少し背景を説明します。加藤清正が作ったビジネスモデルは米の生産に適した環境を整備することでした。領内を流れる4つの川の水運を整備し、米を河口の港に集結させ、ここから大阪に送り現金に換えるのです。水田開発にとって必須なのは水です。平野部の多い県北では上流分で分水し、井手(水路)を建設して、大規模な美田を作り上げたのですが、山が多い県南はどうしてもハンディーがあります。
 県南で目にする秋の棚田は、黄金色の稲穂に赤い彼岸花がアクセントとなって、特に美しいと感じますが、この風景は江戸時代の農民たちの汗の結晶です。長い期間、何世代も継続して、斜面しかない土地に石垣を築き、猫の額のような棚田を一枚一枚と作っていきました。そしてわずかな湧き水を大事に上から下へすべての棚田に行き渡るよう循環させたのです。途中でモグラに穴を空けられたら台無しです。そこで根に毒のある彼岸花を畔に植えて、モグラ避けにしました。ただ、このような努力を積み上げても収穫量はわずかです。粟や稗のような雑穀しか育たない高台に広い平坦な土地に水を通して米を作る。これは近在の農民にとっては夢のまた夢でした。現実には、目の前に深い峡谷が行く手を遮っているのです。巨大な石橋が必要でした。
 この夢プロジェクトを主導したのは布田保之助という人物です。矢部手永の惣庄屋でした。今でいうと矢部村長のような立場です。彼は1801年に惣庄屋の家に生まれています。23才の時に惣庄屋助役に付き、32才で惣庄屋になりました。61才で辞めるまでの30年間で数多くの道路改修や開墾事業を実施しています。通潤橋に着手したのは54才の時ですから、すでに惣庄屋として実績を積み上げ、信用を得ていました。

 彼にとって、このプロジェクトは長年の集大成の事業だったようです。「通潤橋仕法書」という古文書は直筆と言われています。技術的に知識がどこまであったかは判りませんが、技術的な工法から、最難関だった水管の実験の様子、石材の切り出し場所など全工程が記載されており、全体を詳細に把握していたことは間違いありません。リーダシップも見事だと思います。着工から完成まで工事期間はわずかに2年弱。この工事に携わった人々は延べ3万人と言われていますが、一人の犠牲者も出していません。
 また、作業員のほとんどは地元の農民だったと思いますが、現地には朝寝開きの田んぼというのがあるそうです。朝来るのが遅れた人を居残って開墾作業させた名残だそうです。夜明けとともに起きたでは間に合いません。夜明けと主に働いたのです。それほどにみんなが渇望した水路橋でした。保之助も命がけでした。果たして無事に水が通るかどうか、開通式の時は白装束で臨んだと伝わっています。ここまでがプロジェクトの自助の部分です。
 ただ、矢部の衆の団結だけでは大願は成就しなかったでしょう。強力な共助の力がありました。隣村の種山石工の集団です。