理事長室

第4弾:日本史散策 源頼朝を考える。~どのように人心を勝ち得たのか~

  • 2020.8.10
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 日本の歩んだ歴史は東アジアの中でも特異ですが、一番の不可思議さは天皇制が続いたことでしょう。名目上の元首は天皇ですが、ほとんどの時代に実権がなく、関白、将軍という配下が政治を動かしました。たまに制御不能な天皇が出ると将軍はこれを排除しますが、天皇制を潰したり、天皇にとってかわる野望を実行した将軍はいませんでした。逆に将軍の方が段々と野性味が無くなり、執権、老中、側用人といった内務官僚たちが実権を持つという、権力の下請け構造化が始まるのは、日本特有なものだと思います。
 この構造を決定的にしたのが源頼朝です。言うまでもなく、鎌倉幕府の祖ですが、頼朝がやった仕事も人物像も、成功者という印象は薄いのです。試行錯誤の結果、失敗もまた多かったと思います。結局、功労者だった弟の義経を殺すことになり、自身の直系の子孫も絶えています。

 恐妻家であることはほぼ間違いないようです。奥さんは頼朝が伊豆に幽閉されていた時に知り合いました。地元の小豪族である北条時政の長女政子です。当時の状況から見れば、決して玉の輿ではありません。むしろ大変な危険人物に恋をしたことになります。恐れた時政は娘を山奥に幽閉しますが、これで挫けるような玉ではありませんでした。政子は夜中単身で抜け出して頼朝の元に走るのです。劇的に結ばれたカップルですが、決して夫婦仲は良くないようです。原因は頼朝の女性関係です。政子の妊娠中に愛人ができてしまいました。週刊誌を賑わしている芸能人と同じです。ただ現在と違って世間からバッシングはありません。当時は不倫天国です。もともと京育ちの名門の御曹司でイケメンボンボンです。側室の2人、3人は世間の常識です。しかし、政子のいちずな女心はそれを許せません。怒り心頭に発して、恋敵を武力襲撃してしまいます。あな恐ろしい。ここまで書くと、頼朝自身はあまり指導力がありそうに見えません。しかし、武家を統率して史上初めて幕府を開く革命児となります。頼朝はどのようにして人心を勝ち得たのでしょうか。
 結論を言うと、前政権がひどすぎました。当時は藤原氏が政権を握っていましたが、いわゆるパラサイト(寄生虫)です。天皇の外戚のポストをとり、実権を握るだけで天皇にとって代わることはしません。財政基盤は荘園です。律令制の建前から見れば闇経済ですが、最高実力者なのに、何の問題意識もありません。庶民の暮らしなど全く興味がないようです。公共サービスらしいことは何もしていません。警察機能は地方武士に丸投げです。おひざ元の都の治安も地方武士を雇います。これが平氏であり、源氏です。結果として、平安時代は死刑がありませんでした。命が尊いという思想ではなく、人を殺すと、祟りが怖いからです。要は何もしない政権でした。
 気の毒だったのは当時の庶民です。おかみの庇護は全く期待できません。ただ、前向きに生きる人はいつの時代にもいるもので、東国では、まだ手付かずの森を田畑に開墾する勢力が誕生します。地方役人などから土着した子孫たちです。ただ、苦労の末、開墾して田畑も他人に横取りされてはかないません。結局、土地を守るために有力な貴族や寺社に寄進して荘園にしてもらい、自分は地元管理者に収まる手法が考え出されました。
 しかし、それでも力ずくで来られたらどうするか。西部劇では銃を持って戦います。結局日本も同じです。刀弓を持って戦うしかありません。これが武士の起こりです。別に好んで戦っていたわけではありません。このような農場主の境遇は今の中小企業の親父さんに近いと思います。何とか親から受け継いだ企業は残したい。従業員の生活もあります。しかし公は何もしてくれない。同業者と手を結びたいが、気を抜いたら乗っ取られます。
 不満が溜まっていた中、中央政権で内輪もめが起こり、これに乗じて武家の棟梁であった平清盛が天下を牛耳る立場に立ちます。先進性に富み相当面白い人物には違いありません。何かやってくれるのではないか。武士たちの期待は高まります。しかし、やがて失望に変わります。平家がやったことは藤原氏のもの真似で、天皇のおじいちゃんになって権力を握ることでした。何も変わらなかったのです。
 その雰囲気を察して、平家に反発する後白河法皇が追い落としを画策します。地方武士への蜂起を促したのです。流人だった頼朝は、清盛と覇を争った源義朝の息子、名門源氏直系です。当然、院宣が来ます。伊豆周辺の武士は頼朝を担ぎ出し、やがて東国全体の武士に支持が広がるのです。将軍源頼朝の誕生です。