理事長室

皆の衆の政治~北条泰時が目指した社会~

  • 2020.8.31
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 鎌倉時代は庶民に自我が生まれ、自分たちの宗教を持ったことで、日本人全員に精神的な背骨を形成した時代です。また、武士が自前の政権を奪取したことで、自立した規律の取れた社会を作ろうと試行錯誤した時代でもあります。
 リンカーン大統領の有名な「government of the people,by the people,for the people」「人民の人民による人民のための政治」という言葉があります。民主主義の基本の考え方ですが、「逆説の日本史」で著名な井沢氏は「people」を「人民」ではなく「皆の衆」と訳すると日本人にはしっくり来ると言っています。「皆の衆の、皆の衆による、皆の衆のための政治」です。
 鎌倉時代にこの「皆の衆政治」に限りなく近づいた人物が執権北条泰時です。父親は源頼朝の側近No1だった北条義時です。義時は22年のNHK大河ドラマの主人公に決まったそうですが、権謀術策に長けたしたたかなイメージがあります。それに対して、息子の泰時は対照的な律儀な正直者という印象です。歴史書の吾妻鑑には彼の賢人ぶりを示すエピソードが多く載っています。若い頃から将来を嘱望されており、頼朝も目をかけています。二代将軍頼家とは一つ年下ですが、「蹴鞠ばかりやっていてはだめだ」と諫言しています。承久の乱では幕府の総大将を務めましたが、後鳥羽上皇を島送りにしたのちは、朝廷の監視役である波羅探題の長官として京都にいました。この時に執権だった父親の義時が死にます。跡継ぎは泰時が最有力ですが、継母の伊賀の方が自分の息子を担ぐ動きがありました。これに猛然と反対したのが尼将軍の政子です。「馬鹿言いなさい。跡が継げるのは泰時しかいません」これに対して泰時は「まあまあ、叔母さん」という感じで事を収めています。 
 最高実力者の執権職に就いた泰時ですが、自分の権限を割って連署というポストを作り、13人の有力御家人からなる評定衆を設置して、あくまでも集団指導体制を構築します。権力者が政権を掌握した時に、普通やるのは権力の独占化、集中化です。この逆をやったのは泰時以外にあまり見あたりません。けして厭世気分で政治の世界から足を洗ったわけではありません。その後も評定衆の筆頭という立場で裁判を主導しています。承久の乱以後、凋落する荘園貴族に対して守護地頭の台頭し、貴族からの裁判はむしろ増えてきます。そうした中、ただ、泰時は武士側に一方的に肩入れしたわけでもありません。御成敗式目という法律を作り。そこに記述された道理に合っているかを是に判断しました。このため公家からの評判もそれほど悪くはないのです。裁判ですからどのように裁いても不満は必ず出てきます。泰時は偉ぶるでもなく、贅沢をするでもなく、多忙な日々を送ります。「執権は大変な仕事のわりに見返りが少ない。泰時は良くやっているな。」というのが大方の評判です。
 英国で成長した西欧型の民主主義ですが、最初の出来事として、マグナカルタ大憲章が知られています。市民が立ち上がった運動ではありません。当時の国王ジョンは英国で最も愚帝と言われている王様ですが、あまりの暴政に貴族たちが王権に制限を加え、王といえども法を守れと迫り、認めさせたのがマグナカルタです。泰時が主導した「承久の乱」、そして「御成敗式目」は日本のマグナカルタといってもいいと思います。13世紀ほぼ同じ時期に日本でもイギリスの水準と比較して遜色のない「皆の衆政治」が行われていたことをもっと評価してもいいのではないでしょうか。
 明治になって、欧米の民主主義を輸入して、現在の日本の近代化の基盤を作ったことは間違いありませんが、それ以前は郷単位の自治は、ずっとこの「皆の衆民主主義」でやっていました。この土壌があったことを忘れてしまうと権利ばかりを主張する風潮になります。例えば、山奥の集落の簡易水道が地域住民の共有財産として住民の誰でも飲むことができるのは、曽爺さんの時代に村総出で水源から水路を引く作業をしたからであって、これが地域集落の「道理」でした。東京の水瓶であるダムの大部分は東京以外の県にあります。ダム湖の底に水没した村の犠牲で実現できたことを思えば、水を飲む「権利」と同時に、水を大切に使う「義務」が都民にあることに思い至ります。
 パチンコやホストクラブに行く個人の自由は保障させるべきです。妙な価値観を振り回して窮屈な世の中になるのはごめんです。ただ、コロナを他人にうつさないという義務を果たしてから、というのが「道理」です。道理が引っ込むと、無理が通る世の中になります。