理事長室

時習館

  • 2020.10.26
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 江戸時代の殿様は参勤交代があるので、半分は江戸に在勤することになります。留守の間は堀たちだけ改革を進めざるを得ません。ある時、江戸藩邸にいた重賢はブレーンだった学者の秋山玉山を呼びます。実は重賢には一つ夢がありました。人材を育てる学校を作るという夢です。しかし学校を建設するには大金が必要です。「どこにそんな金があるのか」堀が真っ赤になって怒る顔が浮かびます。「どうしたものか。」相談を受けた秋山にも名案が浮かびません。「これは難題。常識では無理だ。」すると片岡主陵という学者仲間の顔が浮かんできました。あいつならいい知恵が出るかもしれない。片岡は変人です。「人それぞれ置かれている環境が違う。川で遮られている対岸に渡る知恵を授けるのを学問とするなら、上流にいるものには、橋のかけ方を教え、下流にいるものには船を作り、櫓のこぎ方を教えるのが、師の役目」という考え方でした。教え方もユニークで、対面して講義するのではなく、車座になって、時には酒を飲みながら語り合うというスタイルでした。
 「なるほど。面白い殿様だな。」秋山から話を聞いた片岡は興味を持ちました。「ところで、その殿様は熊本城内を良くしたいのか。熊本全体を良くしたいのか。」「全体に決まっておろう」「ならば、地域の金持ちからも、学ぶ本人からも金を出させればいいではないか。藩の金が不足するなら三助方式でやったら如何か」
型破りな提案でしたが、重賢は大いに気に入ります。参勤交代での帰郷を待ちきれない重賢は、国元にこのアイデアを書き送ります。学校を作るという方針に、最初はむっと来た堀でしたが、読み進めるうちに思い直します。「さすが殿様だ。」改革は倹約とともに殖産振興も大きな柱でしたが、新しい発想と周到な企画力が不可欠です。改革に当たって、人材不足は堀自身が一番に痛感していたことでもありました。
 改革は始まって3年後の1755年に、今の熊本城二の丸公園の場所に藩校が建設されました。名前は時習館と名付け、学長には秋山が就任します。各藩の藩校建設の先駆けとなりました。藩士の子弟だけでなく、見所があれば、庶民の子弟でも入学を許されたのが大きな特徴です。一応朱子学が正学ですが、武芸も重視、数学や音楽などの教科もあり、いわゆる総合教育を目指しました。そして、ここを育った人材が宝暦の改革を下支えしていきます。
 今回の投稿については、ネタ本を紹介しておきます。昔読んだ本に熊本の藩校が三助方式で建てられたという記憶が残っていて、押し入れの奥から引っ張り出しました。童門冬二さんの「江戸の財政改革」(小学館文庫)です。初版が2002年ですので、18年ぶりに読んだことになりますが、全然、古くさくないことに少し感動しています。重賢にしろ、鷹山にしろ、三助精神に着目したのは、やはり危機に直面していたからだと思います。自助だけではどうしようもない状況の中で、共助が加わり、公助が出ることで、三位一体の効果が出るのです。
 数年前ベストセラーになった「サピエンス全史」に面白い指摘がありました。現代人の直系先祖のホモサピエンスと絶滅したネアンデルタール人はほぼ同時期に共存していた時期があり、個人的な身体能力や知能ではネアンデルタール人の方が勝っていたというのです。ではなぜ、生存競争でホモサピエンスが勝ち残ったのか。その要因はコミュニケーション能力であり、ホモサピエンスが大規模に群れを形成し、新しい武器をすぐに共有し、困難に陥った仲間を助ける習性があったからだと指摘しています。ひょっとすると三助精神の起源はここらにあるのかもしれません。とすれば、「三助精神」は日本固有の存在ではなく、万国共通の理念になりえるかもしれません。