理事長室

家康の経営哲学

  • 2020.9.28
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 いい加減なアレンジで恐縮ですが、ざっくり言うと、家康の人生は波乱万丈の戦国時代の中で揉みくちゃになって、文字通り七転び八起の経験をしています。少なくとも信長が生きている頃は、どうしたら生き残ることが出来るのか。ひたすら徳川家の安寧しか考えていません。領国こそ拡大しましたが、内情は発注企業の動向に気を使いながら、いつ倒産しないか、ハラハラして気をもんでいる中小企業の経営者そのものでした。秀吉が天下を握った時も、家康にチャンスはありましたが、あえて無理はしませんでした。
 秀吉の治世を見ていて、「俺でもやれるのではないか。いや、俺の方がもっとうまくやれる。」そんな気持ちはあったと思います。しかし動き出したのは秀吉の没後、豊臣家の内紛に乗じてです。家康には信長のような独創性はありません。秀吉のようなスピード感もありません。信玄にはコテンパンに負けています。もちろん、三人のいいところは取り込みましたが、経営の師匠としたのは実は頼朝でした。
 頼朝と家康。この二人は生い立ち境遇が似ています。御曹司ですが、少年時代は人質生活を強いられました。多感な年齢の時に、いつ殺られてもおかしくない状況を過ごしたのです。死と隣り合わせで身に着けた観察眼は深いものです。家康がたどり着いた「時代のニーズ」は二つあったと思います。「平和な世の中にすること」と「秩序を回復すること」です。
 貴族も、武士も、庶民もいつ殺されるか、ビクビクしながら生きるのは懲り懲りで、もう辞めたいに違いありません。しかし、欲深い人の業は戦いを引き起こし、戦いの連鎖を続けてしまいます。
 まず、内政の争いを防ぐ手立てです。戦国時代の契機となったのは応仁の乱ですが、その原因は有力大名の家督争いです。無能な長男と有能な次男がいた場合。どっちに跡を継がせるか。こんな時、悩むから問題が起こります。どんなに馬鹿でも無能でも跡継ぎは長男と指定すれば問題は解決するのです。また、家督相続でもめるのは、跡継ぎが誰もいなくなる時にも起きます。家康はこれには血のスペアを用意しました。御三家の創設です。徳川宗家の血が途絶えた時には御三家から将軍を継がせました。このアイデアは8代将軍の吉宗の時に現実となります。
 次に外的脅威はどう防ぐかです。室町幕府は足利将軍家とその他の守護代名の石高の差はあまりなりませんでした。江戸幕府も戦国時代からの生き残りの外様大名の存在を認めざるを得ませんでしたが、領国は遠方とし、最大でも加賀前田氏の100万石に抑えました。400万石の直接天領を持つ徳川家とは圧倒的な差です。さらに外様大名を幕政の中枢には入れないことにしました。政権は石高を抑えた譜代大名や旗本の中から能力の高いものを選別し、合議制としました。極力独裁者を出さない仕組みです。
 さらに腐心したのが、戦国時代に荒れ切った権威秩序の回復です。まず樹立した政権の正当性をどこに求めるかです。信長はあのまま生きていたら、おそらく天皇家を潰し自ら皇帝になったでしょう。だからこそ暗殺されたと思います。一方、秀吉は関白太閤の地位を金で買いました。しかし、そのような権威は本当の権威ではありません。秀吉が死ぬと権威は霧のように消えていきました。家康は征夷大将軍を受け江戸幕府を開く方式を採用しました。また、京ではなく、遠く離れた江戸に拠点をおくのです。組織づくりも三河の田舎大名だった制度をそのまま、老中、若年寄、奉行などの役職を残しました。見映えなど気にしていません。いずれも頼朝の手法や価値観を踏襲していると思います。
 結局、家康は武力で天下を統一しています。しかし、この天下をどうして維持するかという課題に対しては武力を抑制する方向を目指します。承久の乱では初心だった武士達が、室町、戦国時代を通じて、相当な悪に変貌しています。決定的だったのは南北朝でしょう。「天皇なんて、親戚を持ってきて代わりに据えればいいのさ。」このやり方で南朝を潰した足利氏でしたが、結局は因果応報。ブーメランのように返ってきました。「将軍なんて、親戚を持ってきて代わりに据えればいいのさ。」そんな感じで6代将軍義教が暗殺されます。下剋上を自らが招いたようなものです。
 家康はこの風潮をどうしても変えなくてはならないと考えました。そして、儒教を国学として採用しました。天下泰平には世の中を収める規律が必要です。社会人になって早々、「いつまでも学生気分でいるな。公私混同するな。」とよく言われました。この「公」の概念が生まれたのが江戸時代です。人々が公(御公儀)の言うことを聞き、重んじれば、バカ殿が将軍でも天下泰平の世は実現できます。規律を作り、守るために必要なのが、優秀な官僚組織です。その官僚の教科書にあたるのが儒教でした。ただ、本場の中国が採用している科挙制度は導入していません。なぜか。このあたりが家康の経営の本質だと思います。
 家康は徳川家の宝は何かと聞かれ、「家臣だ」と即答しました。今川の人質時代、主のいない岡崎城で家を守ったのは家臣です。三方原の敗戦で討ち死するところを、身を挺して家康の逃げ道を作ったのも家臣でした。だからこそ戦国サバイバルを生き残れました。三河の兵が強いのは、運命共同体だったからです。武運拙く討ち死にしても、その功績が語り継がれ、子孫まで家は守られます。科挙制度を入れて、能力があるからと言って、いきなり要職を得てバリバリ働かれたら、徳川の運命共同体体制は崩壊します。
 家康の時代、他家から見て、徳川家は「律儀」「戦い上手」「ケチ」だと言われていたそうです。今の企業でいうとトヨタの社風に似ているようです。世界的な巨大グループとなったトヨタですが、今も、本社を名古屋から移さず、日本的メンタルを色濃く残している企業です。熊本地震の際の関連企業への徹底したフォローは飛び抜けていました。そしてトヨタの強さは「カイゼン」という向上心を従業員が共有していることと言われています。徳川氏の隆盛を見ると、家康と家臣集団の着実で切れ目ない「カイゼン」の産物と言っていいでしょう。トヨタの創業地は愛知県豊田市。家康の生まれ故郷である三河のDNAを受け継いでいるように思えます。
 家康の家臣は大名となり、三河出身大名が全国にちり多数派となりました。藩政の運営に大きく影響したのが、家康の生き方です。徳川家という組織体制とその成功体験が江戸時代260年余の時間をかけて、日本人の心の中に沈殿しました。武士にとって「公」は藩です。この藩が企業に転嫁し、終身雇用制度を代表する日本経営のルーツとなりました