理事長室

家康、七転び八起の人生(後半)

  • 2020.9.21
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 今。ODAとの関係を切るわけにはいきません。断腸の思いで専務を解任し、妻とは離婚することで企業を守ります。さらにODAは強大な存在となっていきます。信用力を背景に銀行から資金を得なくても社債を発行すれば、いくらでも調達可能です。豊富なM&A資金を手に入れた織田社長は有望ベンチャーを買いまくり、さらに業域を広げていきます。これに不安感を持った財界では足利銀行を中心に反ODAを構築。毛利造船、武田鉱業、上杉電機、本願寺葬祭など各分野の代表企業と全面戦争状態と発展します。
 家康の当面の敵は武田鉱業ですが、手ごわい相手です。特に武田社長は切れ者で、製鉄業から金属加工で業績を伸ばしていました。主戦場は自動車部品。家康は軽量化ニーズに合わせ、ステンレスから樹脂製の代替商品を開発し、牙城に迫ります。しかし武田も特殊鋼の技術をさらに進化させ対抗。逆にプラスチックの海洋投棄を環境問題としてクローズアップさせ、ペットボトル使用禁止の政界工作を始めます。法案が成立すれば徳川ケミカルは大打撃を受けます。五番目の危機です。
 結局、武田社長が病に倒れ、帰らぬ人となり、政界工作は中断します。なんとか首がつながりました。徳川はODAと協力して、炭素繊維の車体用板を開発し、武田の本丸に殴り込みをかけ、ついに倒産に追い込みます。一方、足利銀行は債務超過で破綻します。各分野でもODAは優勢。完全勝利は目前です。
 そんな折、織田社長から海外リゾートを買収したので、一度遊びに来ないか誘われます。長年の盟友関係にあった徳川ケミカルへの慰労ということであり、太平洋の孤島にあるHONGANリゾートまで出かけていきます。接待役は明智専務です。ODAグループ内では出世頭、金融分野のトップで、足利銀行を追い込んだ功労者ですが、突然、ODA銀行頭取から大型AR事業の新会社社長に就任を命じられたばかりでした。この時大事件が起きます。家康も同乗する予定だった織田社長と後継者の信忠副社長が乗った飛行機が墜落します。明智専務のクーデターでした。
 ワンマン社長を失ったODAでは、明智専務のクーデターを暴いた羽柴専務が頭角を出し、ライバル柴田専務を蹴落として実権を握ります。家康もかつてのライバル企業の武田鉱業の事業をほぼ手中に収め、勢力を拡大します。そしてまた、事件が起こります。羽柴専務が徳川ケミカルの石川副社長を引き抜いたのです。石川副社長は家康が今川屋入社の同期生、徳川ケミカル創業以来の右腕でした。これで手の内は丸見え。固い結束でまとまっていた徳川ケミカルだけに社内は動揺します。和睦か、決戦か、議論は真二つに割れます。六番目の危機です。
 結局、家康は懐柔策に乗って、羽柴専務が総師となる豊臣グループに参加します。これで豊臣グループの一強体制が固まりました。敵対した北条食品を倒産させたのち、各地の有力企業を傘下に収め、全産業にコンツェルンを作り上げました。この際、徳川ケミカルは北条食品の全事業を譲る交換で中核である繊維部門を明け渡すというグループ事業再編に同意しています。織田運輸のバイトからたたき上げた秀吉会長は、グループ従業員20万人、年商20兆円超の超巨大企業を完成させます。
 しかし、晩年は原子力発電の超大型投資で失敗、大きな負債を抱えこみ、社内にも不協和音が広がります。創始者の秀吉がなくなると、求心力がなくなり、グループ内で本社エリートと現場たたき上げ派が対立、内紛状態となっていきます。
 社外取締役だった家康はこの間隙をぬい、多数派工作を仕掛けます。豊臣株1億株の過半数を取り、一気に株主総会で経営権を取る策略でした。周到な根回しで5500万株を確保していましたが、敵対する石田社長室長グループの真田証券の妨害工作で、株式購入の現金化が遅れ、1500万株が株主総会に間に合わない事態になりました。これで勝敗は判らなくなりました。両者の株の争奪戦が激化していきます。株価は5千円から5万円に急騰しています。ここで引けば無理して買ってきた5兆円が紙くずになりかねません。家康の豊富な資金力でも、さすがにもちません。七番目の危機です。
 家康は豊臣グループ内の切り崩しに望みをかけます。ターゲットは小早川海運の秀秋社長です。秀吉会長の妻の甥で400万株を持っています。また、毛利造船は石田派で1000万株を保有していますが、一枚岩ではなく、実力者の吉川常務は徳川派で、無投票を約束しています。4500万株あれば勝てる。最後までひや汗をかきましたが、小早川は徳川に靡き、株主総会を勝利します。豊臣グループの乗っ取りに成功し、徳川コンツェルンを完成させます。
 傾きかけていた中小企業を巨大企業に創り上げ、年商を数千倍にした男は後年、この成功の軌跡を「人生は重き荷を背負って、坂道を上るがごとし」と述懐しました。