理事長室

宝暦の改革

  • 2020.10.19
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 戦国時代の長い戦闘バトルの結果、江戸時代に生き残っていた大名家は、ほとんど成り上がり者です。熊本細川家もその一つには違いありませんが、藩祖の細川藤孝(幽斎)は足利将軍家の直参であり、和歌の家元である二条家から古今伝授を受けた文化人でもあります。二代目の忠興(三斎)も千利休の高弟として有名で、武芸だけでなく、雅さを併せ持った大名家でした。子孫である細川護熙元知事もそんなDNAを引き継いでいらっしゃるようでした。細川藩の財産を管理している永青文庫には鑑定団で高値を出しそうなお宝が山のようにあるそうです。目の肥えた殿様が代々お宝を収集したのですから、当然といえば当然でしょうか。この他にも、水前寺公園の造成、大相撲のタニマチになって吉田司家を保護するなど浪費癖があだとなって、54万石という大藩ながら財政状況は常に大赤字で、大阪の両替商の借金は膨らむばかりでした。国元でも藩札が現金に換金できず、流通がストップする状態でしたし、家臣への俸禄も預かりとして5割カットしていました。まさに八方塞がりです。「鍋釜の底に細川と名前を書いた紙を張っておけ、金気が無くて錆が出ないぞ。」と言われたくらい金欠病で有名でした。
 このような中、1747年に細川重賢が26才で第7代藩主となり、藩政改革を行います。宝暦の改革と言われていますが、最大の課題はこの借金地獄です。もともと重賢は跡取り息子ではありません。藩主だった兄が江戸城で人違いの刺されて亡くなるというパプニングから生まれた殿様です。当初は藩主になる心構えなどなかったと思いますし、周りの家臣達もそう見ていたでしょう。理由はともかく藩主がいなくなれば、お家取り潰しが当時のルールです。刺されたお殿様がまだ息があったことにして、屋敷に連れ帰り、弟の重賢を末子養子として認められたもので、ともかく異例尽くしでした。そんな「にわかお殿様」が「改革をするぞ」といきなり言っても誰も相手にしないでしょう。家督を継いでから本格的に宝暦の改革に乗り出すまでに5年を要しています。
 当時の幕藩体制下では、殿様がトップダウンで細かな点まで指示をするようなやり方では秩序を崩壊させます。我が意に沿う者を誰か任命して、やらせるしかありませんが、任せられるような人材は見当たりませんでした。しかし重賢は部屋ずみ時代に本を貸本屋から借りるのに質屋で金を工面するくらい貧乏をしており、世情には長けていました。ただの殿様育ちではありません。一人の男に目を付けました。堀平太左衛門です。背が低く、体が横に張って、歩き方がカニようなので、ガネマサどんと呼ばれていました。石高は500石ですから準幹部級の家柄ですが、この男、とにかく評判が悪いのです。思ったことはヅケヅケとものを言い、上役でも協調性や配慮をしない。まさに空気を読まない男の典型でした。「堀を登用するなどとんでもない、滅茶苦茶になります。」重臣達はこぞって反対しました。しかし重賢はきっぱりと宣言しました。「この改革の責任者は家柄、人柄では決めない。曲がったことが絶対嫌いで、お前たちに煙たがられるくらいの男でなくては務まらない。」
 大奉行に就任した堀は改革に着手しますが、基本路線は徹底した倹約です。「あれもだめ、これもだめ」痛みを強いるお触れの連発に、堀の評判は最悪で、世間の風当たりは厳しくなります。熊本城下では「キンキラキンのガネマサどん」という節の小唄が流行しました。錦綺羅(きんきら)の絹織物の禁(きん)止した堀(ガネマサどん)を揶揄したものです。しかし重賢にとっては想定内です。「これを乗り越えずして改革は成功しない。」堀への信頼は揺らぐことなく、重賢本人が率先して倹約を実践していきます。そして、殿様と堀のブレない姿勢に、初めは懐疑的だった下級武士や農民層から徐々に理解され、支持されるようになっていきました。