理事長室

仮説、熊本駅の開設の裏側

  • 2020.5.11
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 もう一つ、当時の熊本市はそれ以上に厄介な問題を抱えていました。山崎練兵場の存在です。明治10年の西南の役では、中心市街地も焼野原となりましたが、家老などの大屋敷があった花畑町から新市街の一帯を陸軍が駐屯地として接収していました。中心部の広大な土地が使えません。ちょうど米軍基地のある現在の沖縄の普天間市のような状態です。県庁などの行政機関は武家屋敷があった白川公園付近に集約。一方、商業地は呉服町近辺ですから、長期間にわたり、熊本市の政治と経済拠点は大きく分断されることになりました。
 時代は日清戦争の前夜、朝鮮半島への玄関口は博多ですが、本土防衛+補給拠点としての熊本の位置は絶好であります。軍都としての性格が強くなる中、国家から見れば、地方都市の矛盾など些細な問題なのでしょう。清正のように多角的に大きな構想で物事を考えませんでした。できない理由をあげつらい作業が楽な方に向かうのが小役人の常です。国主導のプロジェクトなら、なおさら受け身にならざるを得なかったのでしょう。
 ちなみに、明治20年5月に第五高等学校が開校しています。熊本大学の前身です。同年4月には第二高が仙台、四高が金沢で開校しています。熊本人は喜んだに違いありません。
「名誉な話ではないか。全国で5番目の高等学校だぞ。」
「おめでとうございます。ただ、学校用地を確保しろと言ってきました。」
「学校だから、武家屋敷の先がいいだろう。薬園町あたりはどうか。」
「5万坪と言ってますが・・・。」
「何、そんなにか。なら、その先の黒髪はどうか。」
「キツネが出そうですが・・・。」
「いいじゃないか、静かで。全寮制なんだろう。自然豊かな場所で勉学に励んでもらおう。」
結局、場所は黒髪になりました。龍田山の麓で、細川家の墓所があり、墓苑も多いところです。工学部の改築の時には人骨が出てきて話題になりました。江戸時代は白川の河原で処刑場だったようです。要は市街地のはずれで広い土地が確保しやすかったのでしょう。
 同じようなことが熊本駅開設の時にも起こったのだろうと推測します。
「いよいよ、熊本にも陸蒸気が来るな。これで東京がぐっと近くなる。」
「おめでとうございます。ただ、駅の用地を確保するように言ってきました。」
「人が出入りする場所だから、町人街の先がいいだろう。新町あたりはどうか。」
「駅前広場の用地も必要と言われています。小さい商家が入り組んでいるので、用地交渉が面倒ですが・・・」
「それなら、その先の春日村ではどうか。あそこは、まだカボチャ畑だろう。」
「タヌキが出そうですが・・・。」
「いいじゃないか、静かで。陸蒸気は大きな音や煙で苦情も出ているそうじゃないか。あそこなら、苦情も出ないだろう。」
 以上は、あくまで私の頭の中の想像です。ただ、似たような局面で、似たような風景が繰り返され、チグバグな熊本市に出来上がったという仮説は、たぶん当たっていると思います。
 蛇足ながら、課題となっていた山崎練兵場は、明治30年に市長になった辛島格が渡鹿に代替地を作り、移転させるというウルトラCの企画で解決しています。よく交渉を成功させたなと思います。この仕事は企画力以上に胆力も必要です。ちょうど軍備拡張で山崎練兵場の用地も手狭になったらしいのですが、交渉相手の軍も日露戦争直前で、史上もっとも能力が高かった時期です。話を判る人物もいたのだろうと思います。
 当時は田んぼですが、先祖伝来の土地です。まとまった一団の土地をもれなく買うのは当時も大変な労力だったと思います。急速に近代化する時代の後押しもあったと思いますが、初めの4年で新市街の造成を完成させています。ただ、その後の広大な土地の売り先を見つけるのも大変な仕事だったに違いありません。事業の肝は資金です。渡鹿の土地は購入していますが借金しかありません。売れないと金利も膨らます。売る方では、現在の企業誘致のような活動もしていたようです。こうした大事業は一人ではできません。優秀なスタッフもいたのでしょう。
 結局、辛島は足掛け16年間市長を務め、新市街の繁栄の土台を作り上げます。もし、熊本駅の新設話が、少しずれて辛島の市長時代に来ていたら、少し様相は変わっていたかもしれません。