理事長室

「出来すぎ君」保科正之の律儀な人生

  • 2020.10.5
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 一般的に創業者はチェレンジ精神に富み、やんちゃ坊主のような性格ですが、対照的に二代目は目立たない律儀な真面目人間が多いようです。しかし会社を大きくしたのは実は二代目だという企業が意外と多いのです。組織化がうまくいかないと企業は大きくなれませんが、組織化のリーダーは律儀な真面目人間の方が適性なのでしょう。鎌倉幕府のレールを引いた二代目北条泰時のような人物が江戸幕府にいないか探してみたら、やっぱりいました。保科正之です。
 正之は二代将軍徳川秀忠のご落胤です。母親は静といい、側室ではありません。下級女中に手が付いたという状況です。通常このようなケースは玉の輿ルートで、側室に昇格して江戸城で暮らすことになります。
 しかし現実は違いました。秀忠の正室は江です。NHKの大河でも主役を張りましたのでご存じの方も多いと思います。信長の姪で、秀吉の養女ですから超お姫様です。秀忠との間に7人の子供が出来ていますので、夫婦中は良かったと思われます。秀忠は生涯側室を持っていません。江を心から愛していたのか、恐妻家だったのか、よくわかりませんが、女中に子供が出来たと聞いて、「やばい」と秀忠が思ったのは間違いありません。密かに、武田信玄の娘で尼となっていた見性院に育けられ、そののちは、高遠藩主保科正光の養子となります。幕閣中枢しか知らないトップシークレットでした。

 兄の3代将軍家光がこの弟の存在を知り、初めて謁見したのは、江がなくなって2年後、正之18才の時です。家光は能力が高く、謙虚な弟を気に入り重用します。あるいは精神を病んで蟄居自刃させた同腹の弟忠長への思いもあったかもしれません。25才の時には山形25万石、さらに会津で28万石を与えられます。当時の幕閣には土井利勝、酒井忠勝、松平信綱、堀田正盛などがいて、人材的には揃っていましたが、最も信頼していたのは正之でした。家光の死後は4代将軍家綱の後見的な立場で幕政を切り盛りします。もちろん、老中の合議制がルールですから、正之の独裁ではありませんが、大老職扱いで、長期間主導的な立場にいたのは間違いありません。
 現在、コロナウィルスの感染拡大で世界のリーダーの資質が問われていますが、日本の総理大臣にしたい歴史上の人物を選ぶなら、保科正之を推薦します。長い江戸時代の中でも屈指の名君と言われましたが、中でも有名なのが、江戸の大半を焼失された明暦の大火(1657年)での陣頭指揮です。江戸城も天守閣をはじめ、本丸、二の丸、三の丸も焼けます。唯一残った西の丸に将軍が避難するのですが、ここも危ないと右往左往する幕閣に「将軍が逃げてどうする。」と一喝します。火事は二昼夜に及び、10万人が焼け死に、ほとんどが家を焼きだされました。早速、一日千俵の米を江戸6か所で7日間、粥の炊き出しを行い、家を焼け出された町民の救援金に16万両を支給します。そんなに出したら、幕府の金蔵が空っぽになると反対する声に「幕府の貯蓄はこういう時に使って、民衆を安堵させるものだ。今使わなくていつ使うのだ」と一蹴します。さらに江戸にいる諸大名に帰国命令を出します。「今、江戸には米がない。」食い扶持を減らせば、品薄で高騰することを防ぐためと言われていますが、人質がいなくても反乱など起こらないという確固たる自信もあったと思います。
 火災に強い街にしよう。道路の拡幅を広げるとともに、火よけのための空き地、広小路を作ります。隅田川には橋が無く、火を追われた人たちがパニックになって川に飛び込み、溺れ死にました。両国橋がかけられ、川向うに大名屋敷や寺社も移転します。極めつけは天守閣の再建問題です。権威の象徴の天守閣ですから、最優先に再建すると思いきや、平和の時代に絶対必要なものではないと後回しにします。結局、その後も天守は再建させませんでした。TVでは暴れん坊将軍が江戸城天守のバックに馬を走らせますが、フィクションです。
 彼の最大の功績は、天守閣を作らなくても幕府の威光は保てるという考えを幕閣の常識にしたことです。公(おおやけ)という概念を完成し、「御公儀」の威光を高めたのは、武力による強権ではなく、庶民にまで目の届いた善政でした。ベースにあるのは儒教の教えです。そして、これが江戸幕府のスタンダードになります。代官といえば、時代劇では悪代官だらけですが、江戸時代は立派な行政官が輩出しています。特に正之のDNAは子孫の会津松平氏に色濃く残っていきます。会津藩は幕末戊辰戦争で最後まで戦い、江戸幕府に殉じました。会津藩士にとっては悲劇としか言いようがありませんが、日本にとっては、阿蘇の野焼きのように、古い価値観を燃えつくし、新しい新芽が育つ環境を作った意味で、大きく貢献したと思います。ちなみに、将軍家と親せき縁者の大名は親藩大名として、松平姓を名乗りますが、正之は生涯、保科姓で通します。幼年期に受けた養父への感謝を捨てなかったためと言われています。どこまでも律儀な人生でした。